会社創立に思う


 

 家業として両親が細々と運営してきた「日下巴商店」が父親の高齢化により継続が難しく成ってきたとき、この会社を運営するために今まで両親がどんなに苦労して来たのか、子供としてづっと眺めて来ていただけに良く解っていました、親は口に出してどうこうしてくれとは一切言う事は有りませんでしたが、 「何とかして自分が創立した小さいながらの会社を子供に引き継いでもらい今よりは少しでも大きくして行って欲しい」と内心願っている様でした、父親のその心中を察する時私は我々子供がどうにかして「日下巴商店」を継続して行かなければと決意を新たにしました。 
  丁度,その当時私は県内の建設会社の取締役として仕事に従事していました、父親が起こした家業としての小さい会社を引き継ぐにもいろいろと問題が山積していました、まず私が勤めている会社と家業経営の一人二役にとても自信が持てなかったこと、父親がやって来た仕事内容では、これからの時代会社を大きくして行く事の難しさを痛感し不安を感じていました、それやこれやで半年ほどは悩み続けましたが、最終的判断は名古屋にいた私の次男をこちらに帰らせて将来的に父から孫へ「日下巴商店」を継承させると言うことで落ち着きました、そして私も側面から応援していくことで当分の間は父親に社長をお願いし継承することができました、最初は父親と次男と私の応援の3人で 平成8年10月、徳島市の南末広に小さい一室を借りて社名も、株式会社 日友テクニカルサービスとして再出発をしました。

 平成8年はすでにバブルが崩壊し、建設業における仕事量も減少の一途をたどっている時期でした、元々「日下巴商店」は建設関係の材料特にコンクリート製のブロック、U字溝、井戸側、防火水槽等の製造販売を手がけていましたが、建設工事のパイが小さく成りつつある時に何か営業内容を変化させなければ会社を再出発させても上手く経営して行けないと思いました。
 私は建設業に従事して40数年を経過しており、施工してきた現場の数も30数ケ所に及んでおりましたが バブルの時代その中にはコンクリート構造物でありながら20年くらいの経過でもうすでにスクラ ップアンドビルドで新しい構造物に作り替えるケ所が多々有りました、しかしバブルがはじけた現在業界ではリサイクルとか循環型社会に於ける資源の再利用、施設の保全についても丁度変換期を迎えつつある時期でした。
  私は東京のある講習会で講師より聞いた内容の一つの方向に再出発の会社の営業方向を持っていこうと考えました、施設の保全に伴う診断、特に非破壊検査、ものを壊すことなく良否の判断を行うこのことに関心を寄せていました、目で直接見ることが出来ない物を機械を使って可視判断する技術、電磁波レーダーの技術にも大きな興味を抱いていました、バブルの時代の様に壊しては作り替える時代は終わり、作った施設の延命をどの様に計るか、又施設としての機能と耐力の見極めが非常に大切に成り、ここに現在はまだまだ未発達だが将来的には必ず一つの事業として成長してくるで有ろう可能性を発見しました、 まだ若い私の次男はすぐに会社の方針を理解してくれ、そちらの勉強も始めてやっと 「株式会社 日友テクニカルサービス」の進む方向、生き延びていく方向が見えてきた感じがしました。

 最初には、「でんでん虫のような会社」とか、「虫眼鏡で見ないと解らぬ会社」とか言われてきましたが、小さいなりに同業者の少ない業界で技術を研鑽しながら、一歩一歩確実に前進し信用を得て何時の日か必ず「非破壊検査の日友テクニカルサービス」といわれるよう大きな夢と希望を持ち経営に頑張りたいと思います。

              株式会社 日友テクニカルサービス
                     代表取締役   日下 晴久

            



 


 

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